公開シンポジウム
「民俗学でつながる、民俗学をつなげる−フィールドワークのこれからを考える−」
コーディネーター
加藤秀雄(滋賀県/滋賀県立琵琶湖博物館学芸員)
塚原伸治(東京都/東京大学准教授)
パネラー1
川島秀一(福島県/前日本民俗学会会長)
「五感から学ぶ漁船操業—フィールドワークのひとつの可能性—」
パネラー2
市川秀之(滋賀県/滋賀県立大学教授)
「フィールドワーク教育を通じた地域社会とのつながり」
パネラー3
越智郁乃(宮城県/東北大学准教授)
「二つのミンゾクガク(民俗学/民族学)的フィールドワークの交錯」
コメンテーター
内山大介(栃木県/淑徳大学教授)
松岡薫(奈良県/天理大学講師)
趣旨
日本民俗学会の前身である民間伝承の会の機関誌『民間伝承』第4号(1935)の巻頭言で宮本常一は、「この学問の面白さは読者が同時に実践者たり得る所である」と述べている。この巻頭言のタイトルは「採集者の養成」なので、ここでいわれている「実践」とは、民俗採集であることがわかるだろう。そして、その成果を発信する『民間伝承』誌は、全国の民俗学者のネットワークを形成するプラットフォームに成長していった。
それから90年近い時を経た現在、民間伝承の会は日本民俗学会に名称を変え、民俗採集よりもフィールドワークという言葉の方が、私たちにとって馴染み深いものとなっている。この「民俗採集からフィールドワークへ」という変化は、自然物の標本採集のように「民俗」の採集を目指す調査から、より広い関心に基づく調査が行われるようになったことを示しているといえるだろう。しかし、それは過去に共有されていた斯学の対象と目的を拡散させるものでもあり、フィールドワークも「人それぞれ」のものにしてしまう側面があった点は否めない。さらに現在の民俗学は、調査研究の場もフィールドワークの主体も多様性を増しており、本会の会員は大学、地方学会、博物館、行政機関など多様な組織で、様々な目的のもと、フィールドワークの経験を積んできたと思われる。
このような現状認識のもと、本シンポジウムではいま一度、民俗学のフィールドワークは何のために行うものなのか、そしてそれが何を生み出すのかということを考えてみたい。フィールドワークの主目的が、そこに行かなければ得られない情報を得ることであることは論を俟たないが、近年の様々な研究成果を鑑みるに、フィールドワークにはそれだけに留まらない可能性があるように感じられる。例えば、フィールドで出会った人々と民俗学者が協働して地域活性化に関わる活動を行ったり、最初は観察対象でしかなかった祭礼や芸能に自ら参加したりして、そこで得た経験を記述するといった例は、単なる情報収集の枠に留まらないものとして位置づけられる。すなわちフィールドワークは私たちと社会をつなげるものであり、それがより深いレベルの研究に接続される可能性を持つものとして捉えることが可能なのである。
このようなフィールドワークの可能性を考えるにあたって、本シンポジウムでは、長年にわたり精力的なフィールドワークを続けている3名の会員をパネリストに指名し、その実践に学びながら、これからのフィールドワークのあり方について考えたい。登壇者は、それぞれ活動する地域も専門も異なっているが、フィールドワークをとおして人と社会につながり、その成果を学界内外に発信し続けている点は共通している。今回は、これからの民俗学を担う若い世代の会員にも、民俗学のフィールドワークに対する理解を深めてもらう、すなわち「民俗学をつなげる」ことも意識しつつ、今後の民俗学がどのように人、あるいは社会とつながっていけばよいかということを議論したい。 (文責・加藤秀雄[コーディネーター])
パネラー1 川島秀一「五感から学ぶ漁船操業―フィールドワークの可能性 」 要旨
私は2018年の4月から、福島県の新地町の漁船に乗って、沿岸漁業の固定式刺網漁の手伝いをしている。これまでの「調査のために漁船に乗せていただく」ということと大きな違いは、漁業者の方から乗船を依頼されたこと、その作業に対して日給をいただいていることである。乗船する条件として 私がお願いしたのは、作業中の写真撮影であった。
この、仕事をしながらの写真撮影という目的と行為があるからこそ、漁船操業の全体を見渡そうとする視点を持ち続けることができたが、漁船のオヤカタもまた作業全体の効率を上げるために、常に全体を把握しようとする視点を持ち続けている。この二つの視点が、ときに重なり、ときにすれ違い、ときに対立することがある。「見ている自分」だけでなく、「見られている自分」、さらにそのことを「意識している自分」が、船上の作業の工程を同時に意識しながら、手作業を休めることなく、常に想念される点である。
「写真」は視覚中心であるが、オヤカタは操業中に、その日の漁の特徴を独り言のように簡潔に語る場合があり、その声を聴くことによって、その日の撮影のテーマが決まったりする。そのほか、刺網から魚をはずすときの素手や軍手、ゴム手袋の使い分けなど、魚の違いによって生じる触覚の違いなども、実際の作業において大きな条件となる。
船上での私の仕事は、市場に出す「売り魚」よりも、シタモノと呼ばれる、市場に出せない見ばえの悪い魚や未利用魚、海に戻す生物などを、網からはずす作業が専らであるが、この統計資料に載らないシタモノから見えてくる世界は、「民俗学」でしか扱い得ない対象である。シタモノを「食い魚」に利用する当地の食文化、またはシタモノの「分け魚」に見られるユイの現状、あるいは「配り魚」に見られる贈答による付き合いなど、刺網漁におけるシタモノは、その日の漁労の就業時間を根底から左右するだけでなく、社会関係の下支えにもなっている。
また、東日本大震災後の移転集落の一角に住み、そこでの冠婚葬祭や贈答習慣などに順じて、社会につながりながら、その中で、いかに自分の生活を意識化していくかという点では、船上の仕事と同様である。
さらに、現代の福島の漁業が現実に向き合っている課題の一つである、原発事故後のトリチウム水などの処理水の海洋放棄や、実際の放射能汚染の検出により、クロソイなどが今でも市場に出すことのできないという現況に対しても、関わらざるを得ないことも確かである。
しかし、一つの地に留まり、そこを拠点としながらも、たとえば当地の漁法を全国的な範囲のなかで位置づけたいという思いがあり、日常生活から離れて他の土地を訪ねる機会も多い。ときにはオヤカタをあえて誘って、一緒に他所の漁業を見てまわる機会も作っている。漁業者がそこで見ようとしている視点から、学ぶことが多いからである。
本発表における、一つのフィールドワークの方法は、必ずしも客観化されるものではないが、私が関わり続けてきた「民俗学」という研究の出口を、どのように見出したらよいか、残された限られた 時間のなかで、もがいている事例を紹介するだけに留めておきたい。
パネラー2 市川秀之「フィールドワーク教育を通じた地域社会とのつながり」要旨
大学で民俗学を学ぶ時代となって久しい。以前は民間の研究会や学会、あるいは大学においても研究会やサークルで、「習うより慣れよ」式にフィールドワークの技法を取得することが多かったが、現在では大学での実習や演習などで学ぶことが主流となっている。しかしながら、民俗学におけるフィー ルドワーク教育の方法や技法がこれまで本格的に議論されたことはなく、「習うより慣れよ」式習得法はその場が変わっただけで、内実に大きな変化があるわけではない。また、フィールドワーク教育が、 民俗学や人類学といった領域での研究者育成に資することは間違いがないが、大半の受講生は卒業後、 研究者となるわけではない。ならば大半の学生にとって、フィールドワーク教育はまったく意味のないものかというとそうでもないようである。卒業生に聞くと、大学でもっとも印象に残った授業経験として、さまざまなフィールドワーク教育を挙げる者が多い。また市川自身の経験を振り返ってみても、 フィールドワークが自らの人格形成に大きな影響を与えていることを感じている。
以上を踏まえると、フィールドワーク教育は、研究者育成のための技法習得だけではなく、より広い全人格的な教育の場としての位置づけが必要であり、そのための有効な方法や理論が議論されるべ きであろう。またどちらの立場にせよ、フィールドワーク教育には地域社会との関わりが不可欠である。そこでは学生が学ぶだけではなく、学生や教員がさまざまな意味で地域に影響を与えることとなり、双方向的な関係が形成されていく。その関係が調査終了後も継続する場合も多い。教員・学生・地域社会という3者の関係性(つながり)を視野にいれたフィールドワーク教育論が要請される所以である。フィールドワーク教育論の熟成は今後の民俗学にとっても重要な課題であろう。
市川は、学生時代以来民俗研究を続けるなかで、まさしく「習うより慣れよ」式にさまざまなフィー ルドワークを経験し、18 年前に大学教育に携わるようになってからは試行錯誤しながらも、学生とともにフィールドワークを続けてきた。市川の所属する大学では初年次教育としてフィールドワークをする必修授業があるが、そのほかにも各学年でのゼミもフィールドワークを中心とした構成を取っている。また、さまざまな行政調査に学生を帯同したり、地域貢献型サークルの顧問としても学生を指導してきた。当然そのなかで市川にも学生にもさまざまなフィールドとの関わりが生じ、なかには10年以上活動を続けているフィールドも複数ある。当初は暗中模索のうちに自らのフィールドワーク技法を学生に伝授するだけであったが、ある時点からは教育としてのフィールドワークの意義を考えるようになり、それを確認するための試みもある程度意識的におこなってきた。
シンポジウムでは、これまでの大学における民俗学的フィールドワーク教育の歩みを踏まえながら、市川のささやかな実践例を紹介することとしたい。フィールドワークの過程で生じた課題にも触れつつ、大学におけるフィールドワーク教育のよりよい姿を考えることができれば幸いである。またフィールドワーク教育の場となるフィールドの住民にとって、学生たちの活動が負荷となるだけではその継続は困難である。よりよい関係を保ちながら、地域社会にいくばくかの貢献をなしうるようなフィー ルドワーク教育の可能性についても考えてみたい。
パネラー3 越智郁乃「二つのミンゾクガク(民俗学 / 民族学)的フィールドワークの交錯」要旨
2001 年から沖縄を調査地としてきた報告者にとって、「民俗学」と「民族学」という二つのミンゾクガク的なフィールドワークとは何かというのが隠れたテーマであった。なぜ「隠れて」いたのかというと、民族学・文化人類学を専攻した大学院時代、周囲の研究者の調査対象は当たり前のように国外であったからだ。教員もメインのフィールドは国外であり、単独で 1 年以上の長期にわたるフィールドワーク経験があったり国外放浪経験があったりする先輩院生や同輩の中で、「日本」を選んだのは私一人であった。教員や院生の多くは、現地に「自分の家」があり、擬制的親子関係を結んだ「父・母」「兄弟姉妹」が存在し、国外調査のみ対象とされる民族学の調査助成金を獲得して長期調査に臨むことが当たり前な環境において、「日本」の沖縄における短期調査を繰り返す私は、自身をやや異質な存在として認識していた。
当時の自己認識とは対照的に、民族学には膨大な沖縄研究の成果が蓄積されていた。1945 年までに発展した沖縄学を受けて、研究成果の総決算と問題の所在を明らかにしようとした『民族学研究』15 号第2巻 の沖縄研究特集(1950)が編まれ、1962 年の第一回民族学会研究大会のシンポジウムにおけるテーマも沖縄であった。1973 年発刊の日本民族学会編『沖縄の民族学的研究−民族社会と世界像』には、地域別の村落構造と祭祀世界、祖先祭祀、門中と同族の比較に関する厚い論考が収められている。とりわけ門中は、親族を主要なテーマとし、欧米の親族・出自に関する人類学的理論の影響を受けた研究者らの注目を集め、多くの研究者が沖縄を調査した。しかしながら、90 年代以降になると研究者の多くが親族研究の本場である国外へと流出するようになり、00年代には学生の国外調査も当たり前になっていたのである。
しかし教える側に立ってみると、民族学・文化人類学を教える学部の調査実習におけるフィールドワークは今日に至るまでほとんど国内、しかも大学の存在する地域内で行われていることが分かる。例えば東北大学文化人類学研究室でも、開講以降 30 年間で東北地方をフィールドとしたエスノグラフィックな調査が継続され、その成果が蓄積されている。学生にとって調査の金銭的な問題や安全面への配慮があるにせよ、近隣での短期調査の繰り返しによって得られた成果は、現代東北の民俗誌/民族誌として読むことができる。 またここ数年、自治体からの依頼で実施する東北農村の調査では、人類学者による共同の悉皆調査や資料の共有・検討を行うことで、現代民俗学のエスノグラフィとして民俗学/民族学の接合を試みている。以上を踏まえて本シンポジウムでは、過去と現在の調査を例に、現在求められる地域連携・還元も考慮に入れつつ、改めて民俗学/民族学的フィールドワークとは何か、ということを考えたい。